障害ってなあに?

19人殺した君と重い障がいのある私の対話

「拝啓 植松被告様へ」「私は首から下が自分の意思で動かせなくて、言語障害は多少ありますが、意思疎通のできる障がい者です」――。重度の障がい者である八木勝自さんは、植松聖被告と4通の手紙を交わし、拘置所で対話しました。二人はどのようなやり取りを交わしたのでしょうか。⇒ https://yahoo.jp/e_gtj2N (映像提供:日テレNEWS24)

Yahoo!ニュースさんの投稿 2020年3月13日金曜日

久しぶりのコンラッドです。

書きたいことがたまってるから、ばんばん書いちゃうよ!

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2016年、神奈川県の”障害者”施設で、入所者19人を刺殺した植松被告に、つい先日(4/16)、死刑判決が出ました。

同施設の職員だった植松被告は、「知的障害のある人は生きる意味がない」「社会のためにやらなければならなかった」と語ったと言われています。

この動画では、重度の”障がい”を持つ八木勝自さんが、植松被告に手紙を書き、会いに行きます。

数分の動画ですが、引き込まれます。

”障害” 者という呼称は、「普通」「多数者」「正常」との比較の中で出てくる言葉だ、という点であまり好きではありません。

からだの業界では、「普通」「正しい」「正常」という言葉が当たり前に使われています。「治す」という言葉も、どこへ? と問えば「正常な場所へ」という響きがありそうです。

また、障害 ”者” という言い方は、背が高いとか、右利きとか、というように、その人の持っている属性であるかのようであるところも、実態とは違います。これを “障がい” と言い換えているのも最近目にしますが、どんなセンスなんだ。

苦しさ、とか、困難さ、というものは、その時々の状況の中で生まれるものです。

25才くらいの頃、初めてオランダに行った時に、言葉が通じなくて困ることが沢山ありました。言葉が通じない状態を「障害を持っている」という表現を使うなら、そうでしょう。

でも親切な人が助けてくれたり、その文化に慣れたりすると、特に問題なく暮らしていけるようになりました。言葉が通じないのに、へっちゃらになったのです。

「話せない」という事は、困りごとではなくなったのです。

その人が障害があるのかどうか、ではなく、その人がいま困っているのかどうか、それを判断基準にすればもっとシンプルになります。解決策も考え出せます。

 

「正しさという病い」と言った人がいましたが、植松被告の発想は、それとは無関係でしょうか?

第2・第3の植松被告を生ないためにも、「普通」「正常」という発想から、距離をとりましょう。

 

困ってる人を助ける、これで行こう。

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